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警察と暴力団は江戸時代から内通できる間柄。愛知県警警部脅迫事件と弾左衛門|Garden Dairy 2019年4月1日

2019年4月1日 月齢25.5(長潮)

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出典:気象庁ホームページ

この日は平成から令和に変わった日でした。

日本人は、もれなく天皇様を崇めているからか、「改元詐欺」というものが発生して、世間を騒がせています。

〜以下こちらから引用〜

5月に元号が変わることを悪用し、キャッシュカードをだまし取ろうとする「改元詐欺」が県内でも多発している。県警は平成最後となる今月、同様の事案が続発する可能性があるとみて警戒を強めている。

 県警によると、1日午後2時40分ごろ、越谷市に住む無職の女性(85)方に市職員をかたる男らから「保険料の払戻金がある」「元号が変わるのでカードを新しくした方がいい」などとの電話があった。信じ込んだ女性は直後、自宅で金融機関職員を名乗る男にキャッシュカード3枚を手渡し、現金計100万円を引き出された。

 県警特殊詐欺総合対策本部によると、1~4月3日現在で、元号を悪用した詐欺被害は7件確認されており、被害総額は計約340万円に上る。こうした事態を受け、県警は改元詐欺への注意を呼びかけるチラシを配布するなど対策を急いでいる。県警の担当者は「改元によってキャッシュカードが使えなくなることはない。留守番電話を活用するなど詐欺被害に遭わないよう気をつけてほしい」と注意を呼びかけている。

〜引用終わり〜

同じようなことは、皇室の高貴さを利用した「資格商法」としても有名なようです。

人の欲につけ込む怪しい商売 日本文化振興会 アンバーゲート(Amber Gate) VanaH(バナH) |酒たまねぎや

暴力団やヤクザと、警察官が裏で繋がっていると仮定して考えると様々な妄想が広がります。

日本は在日ヤクザに牛耳られている。(麻生太郎と朝堂院大覚と嵯峨天皇)

もともとチンピラを統括することと、罪人を捕まえることを、同じ弾左衛門一族の人間が世襲制で行なっていたということを知っていると、十分にあり得ることと思えます。

〜以下こちらから引用〜

さて、一方長吏とは何か。
幕末の弾左衛門が二本差で写真に写っているのは、穢多頭弾左衛門が賤民でありながら、武士に近い身分であったことがうかがえる。
徳川時代、江戸の穢多に該当する身分を、地方の藩では皮多(かわた)と言ったり、長吏と言ったり、様々な呼称があり統一されていなかった。だから、ここで長吏と言うときは(穢多と言うときも事情は同じ)、江戸および弾左衛門支配の及ぶ関八州に限っての話になる。江戸の弾左衛門は、穢多であり長吏でもあった。
弾左衛門が穢多という呼称を嫌い自ら長吏と名乗るとき、徳川幕府町奉行から、「御仕置御用」「捕り方御用」「野非人狩り」など、治安対策上の下級警吏業務を任されている自負と誇りが含まれている。
弾左衛門は、町奉行が江戸不在のとき、代わりに市中見廻りの役目なども務めているのである。なんと、奉行が見廻りをするときと人数的には変わらない、総勢二十六人もの供を引き連れて、江戸の町を巡回しているのだ。
ここらへんが、現代の我々からすると、最も理解しづらいのかもしれない。
江戸の町奉行といえば、大岡越前とか遠山の金さんとか、時代劇で知られたスターどころの役職だが、実は大変な権力者でもある。今で言えば、知事、裁判長、警察庁長官を一人(南町と北町で、実際は二人)で兼ねているといえば、想像しやすくなるか。その代役、ピンチヒッターとはいえ、喩えは不適当かもしれないが、広域暴力団の組長が、子分を引き連れて市中を見廻るようなものだ。
参考までに、弾左衛門の見廻り巡回行列の陣容を紹介しておこう。
刀を差した三人の侍を先頭に、若い侍三人が続き、弾左衛門が乗った駕籠には、駕籠かきが三人と交代要員三人の計六人。駕籠のうしろには、やり持ち一人、はさみ箱持ち一人、ぞうり取り二人、茶・弁当持ち一人。馬を引く者一人、雨具やたんすなどを運ぶ者六人、行列を取り仕切る宰領が一人、行列のしんがりを勤める侍一人。これで計二十六人となる。
ただし、このものものしい行列が、町奉行のものではないと、ひと目で分かるようになっている。
弾左衛門が見廻る場合、あざやかな藍色に「矢野」の文字が刻まれたハッピをはおった小者二人、番屋ごとに先回りし「ただいま弾左衛門がまわります」と、告げて回らなければならない。そして、立てたのぼりには、丸に一文字蔦の紋と違矢(ちがいや。交錯した矢の図絵)が描かれてある。また、穢多身分は、やりを肩にかけて持たなければならない。武士は立てて持つ。
これで、この行列が、浅草の浅草寺の奥、新町から来た《浅草弾左衛門》のそれと知るのである。
行列を眺める江戸庶民の心情は、どうだったのだろう。
江戸の町民が罪を犯した場合、市中引き回しの上、打ち首獄門や磔、火あぶり、遠島、追放等々の様々の刑が科せられる。江戸の刑罰は見せしめパフォーマンスの意味合いが強いから、特に死罪などの重罪は、江戸の誰もが何度も目にしているはずだ。
その目の先に、犯罪者を裁く主体の徳川権力の侍、与力や同心がいる。奉行はその場にお出まししないが、もちろん彼らの親分は町奉行であり、そのまた大親分は徳川の将軍様である。
しかし、江戸の庶民は、おっかない侍たちを、睨みつけたりはしないだろう。たとえ裁いた主体が彼らでも、庶民の憤懣が彼ら権力に向かわぬよう、刑罰を実際に執行する身分、穢多や非人に向かうように、パフォーマンス劇は仕組まれている。かつてはそのように解釈されていた。庶民の不満を、被差別民を差別することで、「俺たちよりもっと下がいる」と思わせてガス抜きするというやつだ。
現代のいじめの構造が、まさにそうなのだ。いじめは、学級や会社などの閉鎖的な空間において、権力ヒエラルキーの下部に向かって連鎖反応を起こす。最下部に置かれた人間が、それを全面に受ける悲惨が、いじめ自殺などの社会問題を引き起こしてきた。これは、何度繰り返されても終わらない、この社会の病理でもある。
同じ悲劇が何度も何度も起きて、さんざん議論を積み重ねて法や条例も改正し、学校の教職員はいじめについての研修を受け、市民活動家が悩み相談などの「駆け込み寺」システムを作っても、いじめは減少する傾向にない。いじめの原因になっている何かが、根本的な要因が、おそらく手つかずに放置されているのだと思う。ちなみにこれは、戦争中の軍隊のいじめ問題としても、同様にとらえることができるし、それ以前の戦前からも、ずっとずっと続いてきた、近代150年の根源的な病理なのである。
だが、現代のいじめがそうだから、江戸も同じだろうと考えるのは浅はかだ。そのひとつの反証として、弾左衛門の市中見廻り行列がある。ガス抜き対象としての穢多や非人という存在を、全面否定するわけではないが、それだけではない複雑な様相が、弾左衛門行列からは見えてこないだろうか。弾左衛門や、弾左衛門配下の穢多、非人身分の者たちは、単純に権力ヒエラルキーの最下部という存在ではなかったのである。
これはまったく想像の域を出ない話だが、江戸の庶民は通常、弾左衛門のような身分の者を蔑視していたのだろうが、例えばちょいと《傾いた(かぶいた)》ような連中が、アウトロー弾左衛門に憧れたりしなかっただろうか。数千人の手下を操る非人頭車善七に、渡世人としての別人生を、夢想したりしなかっただろうか。なんせ弾左衛門は、町奉行の代役で市中見廻りもすれば、エタ金と揶揄されているとはいえ、経営の傾いた豪商や威張りくさった侍が、こそこそと金を借りにいく相手でもあるのだから。
表向きの庶民の憧れは、いなせな江戸の火消しなのかも知れない。「火事と喧嘩は江戸の華」というときの主役だ。江戸の町火消しは、明治以降、とび職としてその伝統を継いでいる。この超現代都市東京で、今でも年中行事の折々にかかせない存在である。
祭や正月などの年中行事は、元々は神事と密接に関っていた。江戸の賤民たちも、古くはそこに、自分たちのアイデンティティがあった。現代でも、とび職だけでなく、渡世人やアウトローが集まり、近代の国家秩序とは違う独特の秩序、統制を見せている。彼らは、西国の果てからやってきたわけのわからない新政府の近代150年に与せず、いまだ徳川の世を生きているかのようだ。
現代の彼らのあり方を見ていると、先の筆者の想像が、まんざらでもないような気がしてくるのである。

弾左衛門の始まり

では、江戸徳川の世で十三代続いた弾左衛門は、いつから始まった制度なのか。
弾左衛門とは、どこから来て、いつ江戸に住むようになり、どのようにして家康に採り入れられ、穢多頭に任命されたのか。
これについては、弾左衛門自身が、町奉行に提出した由緒書がいくつか残っている。
著名なのは、享保四年(1719年)と享保十年(1725年)、将軍吉宗の時代、第六代「集村」が町奉行に提出したものと、最後の十三代「集保」つまり我らが小説の主人公が、慶応四年(1868年)新政府に提出したものである。
ただ、この由緒書自体が偽書と言われていて、そのものを真実として採用するわけにはいかない。かといって、弾左衛門に関しては、火事や災害によって消失、紛失してしまった書類がほとんどで、特に、初期の弾左衛門について、詳しいことはいまだ不明な部分が多く、研究者によっても諸説あるようだ。
由緒書には、六代集村と十三代集保の時代に150年近い時間の開きがあるものの、両者とも口をそろえて、「鎌倉時代、源頼朝公に取り立てられた」と言っている。
実は、由緒書を出す方も受け取る奉行の方も、江戸中期以降になると、もはやよくわからなくなっている。町奉行は、「頼朝公に」と言われれば、それを否定する理由はないし、弾左衛門制度を確固たるものとするために奉行が由緒書を要求したとすれば、偽書だろうが構わないわけだ。そもそも由緒書という存在自体が、そういう「あとづけ」的な性質を持っている。
しかし、我々としては、本当のところを知りたい。

中略

興味深いのは、塩見鮮一郎が、一般的な通説とは違い「鎌倉幕府が、弾左衛門『先祖』に求めたのは、まず第一に、『御仕置』のほうであった。その者が、たまたま、火打村の洗練した皮革製作の技術も持っていた」[18]という結論に達していることだ。
通説だと、例えば、中世小田原の太郎左衛門が、皮革の生産技術で北条早雲から五代続く後北条家に仕えたように、戦国武将に皮革生産で仕える長吏頭が、やがて「御仕置」も引き受けるようになったと説明される。多くの長吏頭がそうであるなら、家康に取り立てられた江戸の弾左衛門もまたそうであろう。だが、1で弾左衛門の先祖が鎌倉幕府に取り立てられたときの事情は、そうではないのではないか、と塩見は言う。そこで注目されるのが、中世における「検非違使」の存在だ。
鎌倉幕府の成立前後の時期、源頼朝が必要としたのは、都と同じレベルの文化を関東でも体現できる、プロフェッショナルな集団である。頼朝や、後の北条早雲なども、都の方ばかり気にかけていた。つまらないものの極めつけは、都から関東にさえ「くだらない」という精神構造は、この頃すでに芽生えている。
様々な分野のエキスパートが、西国から箱根を越えて鎌倉に呼ばれたのだろう。それは、賤民の仕事とされる分野でも同様だった。例えば、当時の都平安京で、2の「御陣御用皮細工」と「御仕置もの一件之御役目」に深く関っていたのは誰か。
それは、中世の絵巻物などに登場する「河原者=清目(キヨメ)」であり、その頭目が検非違使尉(けびいしのじょう)だった。頼朝の弟、源義経も、都ではこの役職についていた。[19]
写真、『法然上人絵伝』の一場面を見ていただきたい。
法然の弟子安楽坊が、鴨川の六条河原の中州で処刑されるシーンの一部だ。
合掌している安楽坊の後ろに、「放免」と呼ばれる「河原者」が二人立っている。立烏帽子に濃い髭面の男二人は、今にも刀を抜いて、首を落とそうと身構えている。その斜め後ろに、弓矢を持った検非違使庁の面々。彼ら武士たちは、みな立派で大振りな弓を手に持ち、ド派手に着飾っている。その中で、武士に守られてこの場面を統制する、最も華美な服装をした検非違使尉がいる。
写真には、安楽坊の目の前に川の一部しか写っていないが、舞台は広い六条河原。今よりもはるかに、川幅も河原も広かったはずだ。川の反対側には、京の都の民衆が、この処刑ショーパフォーマンスを、「押すな押すな」とばかりに、固唾を呑んで見守っている様子も描かれている。
法然の弟子安楽坊は、権力の中枢に入り込んで念仏を広め、ついに帝の怒りを買い処刑されることになった。法然自身も、都を追放されることになるだろう。安楽坊は、「絵伝」を見てもわかるように、なかなかのイケメンだ。帝の寵愛を受けた女性たちに、大変な人気があった。
これは、時の民衆が最も関心を寄せた、色と権力と宗教がからむ一大スキャンダル事件なのだ。だからこそこの処刑は、人々の記憶にしっかりと刻み込まれなければならない。
このように、細部まで計算され、様式美に彩られた処刑パフォーマンスを、滞りなく遂行する集団こそ、鎌倉の源氏政権は必要とした。
 時は乱世である。名のある人物を処刑しなければならない場合も多かった。中途半端な仕事をして、笑い者になってはならない。鎌倉の新政権の威信がかかっている。検非違使の仕事のうちの処刑執行と賎民統治の仕事を引き受けて、京都と同じレベルで遂行できる人が、どうしても鎌倉に必要だった。源氏が検非違使庁につとめていたときから関係のあった河原者の頭領が火打村にいた。皮革の売買のため、西国街道を通って京都と多田のあいだを往来している。配下に放免もいただろう。そういうエキスパートに目をつけ、鎌倉に呼んだ。
(『弾左衛門の謎』「第一章 出身地の火打村」河出文庫、170頁)

〜引用終わり〜

簡単に言えば、被差別民は芸能や職人として生業を持ち、それらは全て弾左衛門が統括していた。

そして、適当に罪状を言い渡して「罪人」を生み出すのも彼らの仕事で、中には見せしめとして、「ガス抜き」という意味合いから、処刑されるものもいた。

さらに言えば、処刑された遺体の臓器は、製薬会社・薬屋に高値で売られていました。

で、警察権と暴力団のようなことがほとんど一体となっていたので、当然ながら、以下のようなツイートもあながち間違いではないと考えられます。

警察は暴力団やパチンコ利権者、人権団体、家庭内暴力、マスコミ関係に手出しはしない。つまり、様々な意味で「持ちつ持たれつ」という社会構造になっている。ということですね。

と思ったら、愛知県警では、暴力団と内通していた警官がいたことがすでに報道されていました。

暴力団の資金源の風俗店を経営する幹部と、その幹部らに通じていた警察官と、経営を実質行なっていた弁護士が罪に問われたという事件。

愛知県警警部脅迫事件

江戸時代から、社会構造は何も変わっていない、ということがよくわかりました。

風俗嬢をお金で買えるように、警察官もお金で買えるのが、裏社会のルールのようです。

警察は金で買える!!|KOPATA 挑戦の章

逮捕された警部は、 上層部のキャリア組の身代わりになった可能性も十分ですね。

日本は在日ヤクザに牛耳られている。(麻生太郎と朝堂院大覚と嵯峨天皇)

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