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芸能界が在日である歴史的理由。花郎と武士と解剖とお茶の世界|Garden Dairy 2019年9月10日

今回は、かつて朝鮮半島に存在したと言われる、ジャニーズのような青年集団の存在や、彼らの血族の文化を追うことで、今の日本の「文化」というものが、ほとんど大陸から来たものであることがはっきりとわかってくる内容です。

さらには、権力者と大衆の関係も、わずかながら見えてくると思います。

日本の歴史を見ていくと、源頼朝が鎌倉幕府を成立させたところで「武家政権が初めて導入された」という説明に出くわします。

これまでこの事がどういったことを意味するのかよくわかりませんでした。

平安期に武士のような存在がいなかったのかと言われればそんなことはない。ともかく、その血気盛んな、血なまぐさい一族が、権力を握るようになったわけです。

これは簡単にいえば、天皇・藤原の血筋の周りに、武士集団が権力の座を狙えるほどの力をつけて、実際に源頼朝が初めて天下を取った。

それがどういった意味を持つのかは、彼らの出自を知ることでひとつ明確になりました。

簡単にいえば、彼らは中国大陸の戦争で敗れた武士集団だったようです。

「美男子」という意味もあるそうですが、安倍家の出自とも言える新羅には「花郎(ファラン、かろう)」という騎士集団がありました。

「戦士団的男子集会」ともいい、彼らは歌や踊りなども学んでいたとも言われていて、さしずめ、ジャニーズのような集団だったのかもしれません。

「花郎」は、10世紀まで続いた制度と言われていて、その後の李氏朝鮮の時代には女装する青年であり、歌って踊る芸人であり、時に奇跡を見せるような祈祷師(シャーマン)とみなされていたようです。

男色を行なっていたかつての「歌舞伎」と同じ文化でもあり、ハニートラップとして機能していた「巫女(のちの遊女)」とも、同じような存在だったようです。

これは朝鮮での話のですが、この「花郎」の一部は日本にも入ってきたと言われています。それがのちの嵯峨、清和、村上、宇多の「源」姓を名乗ったとも言われています。

〜以下こちらから引用〜

新羅の花郎が新羅が滅んで以降姿が見えなくなる900-950頃は、まさに日本では源氏が勃興する時期です。

〜引用終わり〜

〜以下こちらから引用〜

ちなみに青森県八戸市の新羅神社は素佐鳴尊(すさのおのみこと)と新羅三郎源義光命を主祭神とする。新羅は「しらぎ」ではなく「シンラ」とよみ、韓国語の「シルラ」からきており、それは「光り輝く」という意味があるという。

源氏武士団は新羅・花郎集団、インド・クシャトリア騎士団にさかのぼるのか

源氏はなぜ、新羅出身を匂わせるのか。源氏武士団はどこからきたのか。

ところで、インドの王侯士族のカースト(階級)、クシャトリアは、グプタ朝の騎士団として知られているが、もともとはアーリア人とチュルク人の混血であるヤードゥ人であるとされる。彼らはグプタ朝が、遊牧民エフタル人の侵入などによって、606年に滅亡したために、北に移動、満州で騎馬の技術に熟達し、それから朝鮮半島に入り、新羅の花郎軍団になったと考えられる。この花郎(ハラン)軍団のトップが源花と呼ばれ、源氏につながっていく。その兵士は郎徒といわれ、源氏の郎党につながっていく。

後にこの源花が、天皇から源姓を賜って、嵯峨源氏、清和源氏、村上源氏、宇多源氏になり、この過程で、源氏の新羅出身を隠して、天皇家と結び付ける、日本列島における最大級の系譜の偽造が起こったのである。インド・クシャトリア集団が新羅・花郎集団となり、花郎集団が源義家、義朝、頼朝など源氏の頭領の家系になった。

他方、百済の亡命貴族によって立てられた平安王朝は、平氏を重用し、新羅系の源氏戦士団を圧迫、源氏は関東など東国へ移動した。

倭国の中央政府では藤原氏が全盛を極め、天皇家とも姻戚関係によって直接結び付いたのとは反対に、百済からの傭兵集団である平氏と新羅からの傭兵集団である源氏は、亡命王族、亡命貴族の増加によって、中央での活躍の場が狭められていた。源平両勢力は地方、東国へ下向して、検非違使(けびえし)や押領使(おうりょうし)や国府の官吏として、土着豪族の支持を得て、武人の棟梁となり、兵馬の権を握りはじめた。

亡命花郎集団は「蝦夷征伐」や「蝦夷経営」において、あるいは「平将門の乱」において「功績」を挙げて、佐竹氏、武田氏、足利氏、新田氏、宇都宮氏、小田氏など、坂東における源氏武士団を形成していくのである。

カッシート人がインドに進出してクシャトリアに転化したか

しかし、このインド・クシャトリア階級がどのようにして発生したのかを納得いくかたちで説明しているものはないように思われる。

筆者の考えはこうである。クシャトリアのクシャは、カッシュ人のカッシュ、カッシートのカッシからきていると思われ、カッシート王国がバビロニアで滅亡したときに、アラビア半島などを経由し、アーリア系やカルディア人などと混血し、インドのクル王国やコーサラ国やマガダ国へ亡命し、その王族や貴族や騎士としてクシャトリア集団に転化したのではないかと思われる。

カッシート王国時代、カッシート人はバビロニアに第三王朝を建国し、そこに馬と戦車をもたらし、王族と貴族と将軍などを構成していた。彼らは当初から騎馬軍団の要素を持ち合わせており、インドに進出してクシャトリアの騎士貴族階級を形成する素質は十分にあったのである。

鎌倉時代、室町時代、江戸時代と武家の政権を担ってきた源氏。通説では、第56代の清和天皇の皇子、貞純らに賜った姓だとされるが、すべてを清和に結び付けるための、あるいは渡来系であることを隠すための系図詐称の疑いが強い。源氏のルーツは新羅の花郎(ハラン)戦士団からインドのクシャトリア騎士団、さらにはメソポタミアのアーリア系カッシート騎士団にたどりつくというのが、著者の見解である。

〜引用終わり〜

彼らが信仰していたのがガンダーラ起源の弥勒(369)信仰とされていますが、これを現代に「地」で行っているのが、東出融という人物です。

〜以下こちらから引用〜

いよいよ心臓の外回転を全身に回して、六つのチャクラの左右内回転を導入しました。

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ハイエンドホモ・サピエンス道場がお送りする、ワイルドブレイン ヒューマンインテリジェンス。

いよいよ心臓の外回転を全身に回して、六つのチャクラの左右内回転を導入しました。

そして、このようなワークから、未来にあーしようこうーしようではなく、霊的魂的な成長が時間差で日常に結果として現れ、それこそを自ら見つけて行く事で結果三次元が良くなって行く事を、道場生がジワジワと把握され出して来ました。

〜引用終わり〜

「六法全書」以上に何をいっているのかよくわからない文章が並んでると思われた方も多いと思います。

ちなみに東出融の「融(とおる)」は源氏物語の主人公「光源氏」のモデルと言われる人物「源融」の名です。

「花郎」がジャニーズのような集団とお話ししましたが、まさに光GENJIがここにも登場してきます。

そんな東出融は伊賀甲賀の二重スパイだったそうです。

〜以下こちらから引用〜

また、「東出融」氏の先祖が「伊賀と甲賀の二重スパイ」であり、祖母が「北海道ににしん御殿を建てた」という話は、以下の彼の講演会で聞くことができます。

で、「伊賀と甲賀の二重スパイ」といえば「服部半蔵」であり、「北海道ににしん御殿を建てた」といえば、フリーメーソンのカレルギーと結婚した「青山みつ」です。詳しくは以下のリンクをご覧ください。
 
RAPT×読者対談〈第65弾〉戦後復興もすべては天皇家一族の儲け話。

〜引用終わり〜

同じく、忍者の出自とも言われる一族に、鹿島建設の鹿島守之助を輩出した「永富家」があります。

〜以下こちらから引用〜

永富家の先祖は伊賀上野あたりの人ともいうが、真偽は定かでない。また、いつ頃から播磨の地に住んだのかもはっきりしない。文献には関ヶ原の戦いの頃から登場するらしい。

鹿島守之助は永富家の四男として生まれ、東京帝大卒業後に外交官となった。鹿島家を継いだのちに外交官を辞め、昭和17年には大政翼賛会調査局長となった。

〜引用終わり〜

永富家の四男だった守之助が家督を継いだ「鹿島家」は、平氏と言われていますが、平安期の平氏は源氏より身分が下だったようです。

〜以下こちらから引用〜

鹿島成幹は河内源氏の棟梁であった源義忠を姉または妹の舅である源義光の命を受けて暗殺するが、その義光の息のかかった義光の弟、快誉に殺害された。その死後、六人の息子に遺領は分割され、三男とされる鹿島三郎政幹が惣領となった。

〜引用終わり〜

そんな守之助の永富家は、関ヶ原を境に権力を大きくしたようで、金貸しを始め現在の農協のような働きをしていたと言われています。

〜以下こちらから引用〜

17世紀の永富家は大地主で、庄家を兼ねていたそうです。寛文12年に脇坂氏が龍野の領主となってからは、永富家は藩に金を融通したり、あるいは年貢を大阪へ積み出す事を請け負うなど藩主も一目おく存在だったそうです。

〜引用終わり〜

〜以下こちらから引用〜

龍野藩時代には代々この地の庄屋を務めた。江戸時代中期以降は逼迫する藩財政とは逆に次第に裕福となり、藩に資金を融通したり、年貢の大坂への運搬を請け負うなど藩内で重要な地位を占めた。このため藩主の脇坂家より「在郷家臣」として上級武士の待遇を受け名字帯刀を許されていた。 明治以降も農民の営農相談や物資の斡旋を行うなど篤農家として農協のような役割を果たしていた。

〜引用終わり〜

この永富一族からは著名な医者も出ています。永富独嘯庵(どくしょうあん)と言います。彼は1700年中頃に活躍した医者ですが、養子として永富家に入りました。

〜以下こちらから引用〜

21歳の時、東洋に命じられて越前の奥村良筑のもとに赴き、「吐方」(嘔吐させて治療する方法)を学んだ。29歳の時、病をため、家を離れ諸国を漫遊した。長崎ではオランダ医学を吉雄耕牛に学んだ。この旅行の見聞をまとめて『漫遊雑記』として著された。

『漫遊雑記』を華岡青洲が読み、乳がん手術を行う契機になったとされる。30歳のとき大阪で開業し、多くの門人を育てるが35歳で病没した

〜引用終わり〜

ここで出てくる「嘔吐させて治療する」ということが書かれた本に、「黄帝内経素問」という書物があり、これは700年代の頃のものです。民間療法で言われる「未病」はこの本で初めての使用された言葉で、「陰陽五行説」をその根底に持つ言葉だそうです。

漢方の世界ではよく聞く言葉でsが、つまり、未病という概念自体が、陰陽五行説からくるもので、その思想の中で生きることを意味します。

すでにこの時代に「嘔吐剤」のレシピは存在していたようで、瓜系の植物には嘔吐を催す成分が入っているそうです。

〜以下こちらから引用〜

未熟果の蒂には苦味質のメロトキシン、エラテリン、ククルビタシンB・Dなどが含まれ、メロトキシンには胃を刺激して反射的に嘔吐中枢を興奮させて嘔吐を引き起こし、同時に蠕動を興奮させて下痢を起こす作用がある。

 漢方でも催吐薬として用い、癲癇や脳卒中、喘息などで痰が詰まって呼吸困難なとき、食べすぎで胸がつかえる時、毒物を誤って食べたときなどに用いる。食べたものが下に降りずにみぞおちに痞えて苦しいときには赤小豆と混ぜて粉にし、豆鼓を煮た汁で服用する(瓜蒂散)。また単独を煎じて吐剤として用いる(一物瓜蒂湯)。粉末にしたものを鼻に入れると湿熱を除くといわれ、黄疸や頭痛、鼻閉、浮腫などに用いる方法もある。

〜引用終わり〜

しかも、永富独嘯庵が長崎のオランダ医学を学び、その時のことを残した「漫遊雑記」という書物がきっかけで、華岡青洲が初めて「乳がん手術」することになったということも知られていますが、この頃から「カニバリズム」が行われていた可能性が考えられます(もちろんもっと古くからありますが)。

RAPT×読者対談〈第131弾〉小林麻央の死は悪魔への生贄である。(悪の巨塔・日野原重明と市川海老蔵の深いつながり)

麻酔薬を開発して手術に利用したのが「乳がん手術」を初めて行った華岡青洲とい人物ですが、この時代に「外科手術」をできたのは、今でいう「被差別民」か、それに近い成り上がりの「下級武士」で、これはのちに「ちょうりんぼう」と悪口を言われるようになる「源氏系の秦氏」です。

また彼らは、警察権と外科手術とギャンブル(賭博)を仕切っていたいわゆる「暴力団」や「ヤクザ」だとも言われています。

〜以下こちらから引用〜

弾左衛門の支配下にあった、江戸の被差別民衆

2-2 長吏(ちょうり)

長吏は、弾左衛門自身が属した身分です。西日本などでは「かわた」と呼ばれます。幕府や差別する側が使った名称で言えばいずれも「穢多」ということになりますが、これは江戸時代においても明らかな蔑称でした。長吏や「かわた」たち自身は、基本的にこの呼び名を拒否していました。江戸の長吏たちは、弾左衛門屋敷の周辺に集住し、直接弾左衛門の支配を受けました。長吏たちの主な仕事は、斃牛馬の処理、その結果手に入る皮などの加工、太鼓や武具など様々な革製品の製造販売、町や村の警備や警察、祭礼などでの「清め」役、各種芸能など勧進ものの支配、山林や狩猟場、そして水番などの番仕事、草履作りとその販売、灯心・筬(おさ)など各種の専売権の管理・行使などです。これらの仕事はいずれも中世以来長吏たちの仕事とされ、江戸時代、他の人たちがこれをおこなうことは基本的にありませんでした。

●長吏たちは、日本で近代医学確立以前に基礎医学の知識を持つ唯一の存在だった

また、これは長吏の独占的な仕事ではありませんが、かなり有力な仕事として実質的な獣医や医師、薬品の製造販売など医療にかかわる仕事がありました。なぜ長吏たちが獣医や医師を有力な生業としたかというと、明治以前、長吏たちの持つ人体や動物の体に関する知識が、一般の医師や獣医たちが持つものよりも正確で実証的なものだったからです。これは中世以来長吏が刑吏や斃牛馬の処理に携わってきたことと無関係ではありませんでした。

 有名な『蘭学事始』の中に次のようなシーンが出てきます。前野良沢、杉田玄白、中川淳庵らは『ターフェル・アナトミア』の人体解剖図が正しいかどうか確認するために小塚原刑場に刑死者の解剖「腑分け」を見に行くのですが、このとき執刀にあたったのが「穢多の虎松の祖父、90才の高齢だが健やかな老人」でした。彼は、良沢や玄白ら見学者たちに肺、心臓、肝臓、腎臓、胆嚢、胃などを正確に切り分けて名前を述べて示し、さらにその他の血管や筋など複数の器官についても「これらの名前は分からないが、どの人体内部も必ずこのようになっている」と語りました。そして、それらの様子が、いちいち『ターフェル・アナトミア』の解剖図と一致していたのです。

 江戸の長吏であった「虎松の祖父」は、このとき既に系統だった人体解剖技術を持っており、しかも主要な臓器の名前、位置まで知悉していました。そしてこの実証的知識が、良沢や玄白ら一般の医師たちがまだ十分に知らなかった西洋医学の基礎知識と完全に一致していたのです。

〜引用終わり〜

杉田玄白が解剖の本を出版するために、小塚原刑務所で日々遺体解剖をしていた老人に話を聞きにいったというエピソードも有名です。

当然この老人は、被差別民だったはずです。

さらに、彼らはのちの「東京都健康長寿医療センター」に繋がる「養育院」の運営も行っていて、明治期以後は、皮革産業にその利権が移っていったようです。

〜以下こちらから引用〜

浅草に養育院ができたその管理をまかされたのは車善七である

その時は苗字を長谷部とかえていた善七は江戸の非人頭である吉原の近くに200年も前から非人は往来する無宿者や囚人の世話をしてきた

ここに狩られた人々がやってきて一升徳利を湯たんぽがわりにしたりして看護した皮肉なことに解放令がだされここはなくなった

賤民のための施設は解放令で賤民はいなくなったのだからいない人のための施設はいらないという理由からだ廃止されそこにいた人々が他の救済所に入れたかというときっと入れなかったと思う

養育院はそれから変遷して東京都健康長寿医療センターにつながっていく入口には渋沢栄一の銅像がある江戸時代の積立金、備蓄米を利用して養育院の運営になっていくわけだが、渋沢栄一が尽力した。

ここにリーガルの祖西村勝三も参加している西村勝三は皮革産業を起こし、江戸時代に皮革に携わってきた弾左衛門と同時期に靴製造をはじめた人である台東区に皮革産業資料館がある

〜引用終わり〜

さらに鹿島建設へと繋がる永富家は、千利休の一族とも関係を持っているそうです。

〜以下こちらから引用〜

本席は「豊浦流」の茶席
奈良興福寺「一乗院」の茶道を預かる上島家は江戸時代後期より永富家と親戚関係にありました

濃茶席の床は、清巌宗渭(せいがんそうい)(1558年~1661年)の墨跡(偈文)

大徳寺170世住持で千宗旦(利休の孫)の参禅の師で今日庵を名付け親である

〜引用終わり〜

さらに伝統芸能の「能楽」の世阿弥とも親戚関係のようです。

〜以下こちらから引用〜

永富氏と世阿弥の観世家とは何か関係があるらしい。伊賀の旧家に伝わった「上島家文書」の情報を整理すると、次のような系図が作成できる。今田哲夫・伊藤ていじ『永富家の人びと』鹿島研究所出版会より

永富家・世阿弥系図

永富家・世阿弥系図

永富家と世阿弥の関係は、「上島家文書」の屋鋪絵図における次の文言を根拠としている。

コノヤシキ元清入道正平十八歳霜月十二日生、母播磨国揖保庄永富左衛門六郎女

元清入道、すなわち世阿弥は正平18年(1363)に播磨国揖保庄の永富氏の娘を母として伊賀に生まれた、という。それゆえ母の像が、生家のある播磨と嫁ぎ先の伊賀の両方に建てられているのだ。

しかも、世阿弥の父、観阿弥は楠木正成の姉か妹の子だともいう。ビッグネームに連なるすセレブな家系だ。系図の内容は確かにすごいが、すごいだけに「出来過ぎ」との評価もある。伊賀ではなく大和出身と考える研究者も多い。

それでも伊賀市は、観阿弥・世阿弥生誕の地とPRしている。たつの市も、世阿弥の母の里と称している。奈良県磯城郡川西町大字結崎の面塚(めんづか)のあたりが世阿弥の生誕地だともいう。

伝説の地がいくつもあるのは、それだけ世阿弥にあやかりたい人が多いということだ。鹿島守之助もその一人なのだろう。

〜引用終わり〜

かつてのジャニーズが「花郎」という青年集団で、その源氏一族が芸能を取り仕切っているということが見えてきます。

その上、茶道にも深く関わりを持っているわけで、今でも裏千家の茶会が開かれるのが「永富家」なのも納得です。

〜以下こちらから引用〜

・・・といいますのが、裏千家淡交会岡山支部の顧問でもある

《 藤原 和 》先生が、永富家住宅で毎年この時期に行われている

【 あやめ会 】の席主を務められることになり

そのお手伝いとして声を掛けていただきました

〜引用終わり〜

少しわかりずらかったかもしれませんが、武家集団が行なっているものが、いわゆる「クールジャパン」で語られるような伝統芸能であり、その一部は、ジャニーズのような芸能として今の今まで連綿と続いているということです。

千家の家紋の一つに「独楽」がありますが、これは「高麗(こうらい)」を意味しているのかもしれません。

どちらにせよ、日本のお茶文化も、朝鮮半島または中国とこのような関係で繋がっているということで、それは、支配層をトップにした権力構造と密接に、そして複雑に繋がっていて、それを一口で説明するにはやっぱりどうしてもこれくらいの分量になってしまいます。

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