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騎馬・武士文化と牛・馬文化から見る、冷と温の「肥料」|Garden Dairy 2019年2月16日

2019年2月16日 月齢11.2 (満月の5日前)

最低気温(℃) -0.5
最高気温(℃)13.5
日照時間(h) 6.7

出典:気象庁ホームページ

2月8日以降の天候を数字で振り返ると、最低気温が氷点下を記録する日が増え、昨日の15日は-2.5と、とても冷え込んだ日でした。雨が降った9日は全く気温が上がらず最高気温が1.1℃と言う数値も。

ひょんなことから、牛と馬の人間との関わりを調べていた際に、特に馬と騎馬民族との関わりについて、これまで自分が抱いていた常識とは大きく違うものが見えてきたので、ここで書き残しておきます。

「士農工商」は見当違い、でも、身分の差は有史以来一度も無くなったことはない

2016年頃に教科書から「士農工商」と言う階級分けを表す言葉を使わなくなったそうです。

確かに「士」に当たる武士には、嵯峨天皇という皇族の親戚になる平氏・源氏という「武士=棟梁」もいて、彼らは年貢を「納めさせる側」だったわけです。対して、その棟梁を慕って武士団を形成した武士の中には、その上級武士に仕える使いパシリのような武士もいました。下級武士出身で一番出世したのが、かの「豊臣秀吉」とも言われています。

武士の原型とも言われる騎馬集団を見ると、当然ながら小さい集団であっても、必ずその集団の指導者(カシラ=頭)=トップがいるわけです。

カシラがいて、その人の言うことにその集団が従うからこそ、その集団が強力な統率力をもち、結果として、他の集団に勝つことになり、だからこそ、それらの集団が生き残り子孫をつなぐことができたわけです。

現在の世界でも、トップクラスの大学が、学習院大学・明治大学・青山学院大学・立教大学・中央大学・法政大学の総称「GMARCH(ジーマーチ)」と呼ばれ、さらに「日東駒専(日大、東洋、駒沢、専修)」というものもあります。

これらの中には、実力によって入学を許されるところもありますが、皇室関係者やお金持ち家系が入学する「成蹊、成城、武蔵、学習院」の四つは、幼稚園からエスカレーター式に進学できる仕組みとなっていて、生徒の中には「本当に頭悪いですね」と言う人もいるそうです。

つまり、家柄がよくなければ、そのような教育機関には入れないと言う現状が今でも続いています。

もちろん、人間には生まれた時点で、ほとんど逃れようのない身分の中で暮らしていかなければならないので、お嬢様、おぼっちゃまとして育てられた人たちのでも、そうでない庶民でも、同じ苦悩はあるはずです。ですから、妬みなどの気持ちは全くなく、それぞれが、社会のために本当に有益なことすれば、格差はあってしかるべきだと考えます。

しかし、問題は本当にこの仕組みで、世の中が良くなっているのか?と言うことですし、気づかない人がまだ多くいるかもしれませんが、国民のほとんどは、この弊害に苦しめられているのではないでしょうか。

ともかく「士農工商」を教科書から消すと言うことは、そのような身分格差があることを隠そうとしているようにしか見えませんが、間違いなく、格差は存在します。

それは、高須クリニックの医院長、高須克弥が、包み隠さずに全てを暴露していることからも、伺えると思います。

と言うことで前置きが長くなりましたが、今回は「士農工商」の一番上に位置する武士についてです。

武士文化は「コープ(生協)」と同じ

正確には皇族の一つ下に位置する武士ですが、日本に根付くのは源頼朝による「鎌倉幕府」がその始まりだと言われ、まだはっきりとしていない頃の武士は以下のようなものでした。

〜以下こちらから引用〜

つまり武士団とは互いに助け合う組織(そしき)だと考えてください

〜引用終わり〜

武士というと「刀を持って馬に跨り幕府に仕える」

こんなイメージがほとんどの日本人の「武士」だと思われますが、その始まりは、引用したような「相互自助」組織だったようです。

つまり、年会費を組織に納めることで、生活品を揃え配送までする生協(コープ)のようなもの、さらには、一人のYouTuberのチャンネルをフォローする「フォロワー」たちと、そのYouTuberのこと。

もっと拡大解釈をすれば、「株式」を、誰かに買ってもらい、受け取ったお金で事業を展開する「株式会社」という形態も、ある意味、武士団と同じということになります。

「平家物語」や「源平合戦」で知られる平氏と源氏は、元をたどると、嵯峨天皇の親類だったそうです。

嵯峨天皇自身の血が流れる娘や息子に与えたのが「源」という姓。

嵯峨天皇の兄弟たちが生んだ子孫に与えたのが「平」という姓。

嵯峨天皇自身が、もともと朝鮮半島から渡ってきて、日本列島で天皇となった一族の人物でしたが、この一族は、モンゴルなどで知られる「遊牧騎馬民族」の文化を日本列島に持ち込んだようで、その騎馬民族の一部は、それ以前に日本の京都(近畿地方)にいた一地方豪族から追いやられ、近畿地方から見た「地方」、つまり、東北や北海道、九州や沖縄などに広がっていきました。

嵯峨天皇の一族は、朝廷に入り込んだわけですが、源頼朝は、それ以前から関東地方に住み着いていた豪族に担ぎ上げられる形で、関東武者を形作っていったと言われています。

つまり、近畿地方(中央)の豪族に敵対心を持っていた豪族が元々関東地方にいた。で、彼らが、嵯峨天皇の子孫である「源氏」と手を組んで、当時の近畿地方の朝廷と戦った。

その結果、鎌倉幕府が開かれた。と言うことだったようです。

牛と馬の糞=肥料の違いと、日本列島の「馬」文化と「牛」文化

そして面白いのが、日本でも古くから家畜として活用していた牛や馬についてです。

特に、農業の視点から見ると、現在の「有機農業」に当たる牛や馬の糞を肥料として使っていた時代だったので、牛と馬の糞を肥料の観点から深く理解していたことが伺えます。

馬と牛が農作業には欠かせない生き物でしたが、それぞれの特徴が、日本列島のそれぞれの地方の気候の特徴や、その肥料にまでうまく利用されていたようです。

〜以下こちらから引用〜

馬は牛よりも速く走る。というのは先述させて頂きましたが、農耕でも同様であり馬の方が農耕速度は優れています。拠って厳冬地域であり耕作適期が短く、出来る限り早く農耕を行いたい東北などの北日本では、主に農耕馬が使われる大きな理由の1つとなっています。

また農耕馬は脚長であり泥濘であるとバランスを崩しやすいので、水気・粘土性が少ない火山灰地の耕作に向いており、東では浅間山・富士山を持つ北関東・甲信、西では阿蘇山を持つ熊本でも農耕馬が飼育されていました。更に付け加えさせて頂くと、東北・甲信・熊本は古来より馬の産地であり頭数が多いもの理由の1つもあると思われます。(註:なぜこの地方に馬文化があったのかは、こちらのサイトで証明されています)

馬糞つまり厩肥ですが、牛糞に比べると水分少なく、繊維質に多い上に通気性に富んでいるので発酵し易い特徴があります。よって厩肥を『熱肥』と呼ばれていました。この特徴を生かし、田畑の地温を高める効能があるので、やませ(冷風)などで地温が下がり冷害が頻発した東北などの寒冷地で農耕馬が飼育されていました。

中略

農耕牛に関しては、全くと言って良い程、農耕馬とは真逆であり、ほぼ西日本に特化されています。近畿~九州まで幅広いですが、特に中国地方に農耕牛飼育の集中が多く見られます。例外によって新潟県佐渡・岩手県がありますが、共に佐渡牛・南部牛・水沢牛で有名な産地であるからです(明治19年徴発物件一覧表参照)。

古来中国地方(兵庫・岡山などは、佐渡・岩手に劣らぬ牛の産地)が勢揃いしており、牛が農耕に利用されいたのは当然の理である事がわかりますが、堆肥である牛糞の効能にも理由があります。先述の通り、馬糞(厩肥)は水分が少なく発酵し易いので『熱肥』と呼ばれていましたが、牛糞は馬糞に比べ、水気多く通気性が悪いので発酵し辛い特徴があります。

よって馬の熱肥と真逆の『冷肥』と呼ばれていました。中国・四国を中心とする温暖で田畑の地温が熱い場所には、牛が出す「冷肥」が合っていたのも、西日本の農耕牛主力の大きな理由の1つだと思われます。

〜引用終わり〜

〜以下こちらから引用〜

国牛十図とは
 昭和30年頃(ころ)まで和牛は、関西を中心に西の地方で役肉兼用種(註:労働用と食肉用)として田畑で使われており、関東以北では、主に馬が使われていました。
 鎌倉末期に描かれた『国牛十図』(※)を見ると、牛は箱根より西の土地に描かれており、関東以北には一頭も描かれていません。
 これは、北の地方では冬が長く、農耕適期が短いため、作業のスピードが早いことが要求された(水田耕作での馬の時速は約4.0km、牛は約2.5km)ことや、馬の厩肥(きゅうひ)が発酵(はっこう)によって地熱を高める効果があるのに対して、牛の排泄(はいせつ)物は「冷肥」で、寒冷地に向いていないことによるためです。

 ただし岩手県だけは例外で、鉱山が多いこの土地の坑道では、背の低い牛の方が馬より使いやすいこと、また峠が多いため、傾斜地に強い牛の方が輸送に使うのに便利だったことから「南部牛」が飼われていました。

〜引用終わり〜

日本に入ってきた騎馬文化では、広い平地の少ないため西洋の馬車のような「乗り物文化」は発展しませんでしたが、日本には、馬中心の文化と牛中心の文化があったようです。

馬車が普及しなかったように、もともと、日本列島では馬の飼育術に関しては、西洋や平らな大地が続く中央アジアほどに発展していませんでした。

牛は、朝廷で移動手段として使われたり、農業の際に現在でいうトラクターのような形で利用したり、古くは牛乳を「薬」という名目で、天皇へ税として納めるという文化もあったそうですが、牛を食肉用としていたのは一部の権力者だけでした。

それは貴族のほとんどが、四つ足動物食が禁止されていた「仏教」と深く関わっていたために、庶民にも「四つ足動物の肉食禁止」を言いわたすほどで、「表向き」は鳥や魚、イノシシ、うさぎなどが食されていたようです。

武士階級はその始め、朝廷の言いなりで、奴隷のような形で庶民を管理する役職につかされていたといいます。

死刑執行や死体処理などの汚れ仕事から、その遺体から漢方薬を作ったり、もともと持っていた科学知識から焼き物や刀、鉄砲などを作る鋳物師(いもじ)、はたまた、現在の新聞社とも言える「辻講釈」や踊り、あらゆる芸事などをしていたといいます。

つまり、武士というと腰に刀を二本さして、街を練り歩くといういイメージがありますが、それは、江戸時代に入ってからの話で、武士はかつて「百姓」と呼ばれていた人たちと混在しており、朝廷からこき使われていたという表現では、一致します。

当然その中から、朝廷に反対する勢力が生まれてくる。それが、源平合戦だったとも言えます。

関ヶ原の戦いも明治維新も第二次世界大戦もすべては源平合戦だった。

で、先ほども言ったように、彼らは、元をたどると藤原姓でもある嵯峨天皇の親類です。そう考えると、ただの親族の内輪もめに、この日本列島が巻き込まれているとも考えることができます。

それは、まるで、安倍政権の中で、苦しくても声を上げられずに苦しんでいる人のようでもあります。

徳川時代には、美味しい美味しい近江牛を納めさせて食べていたのは権力のトップに位置する徳川家など。当時も今も、権力者だけが、美味しい思いをしているという構造は何も変わっていません。

本当は、牛と馬についての資料がもっと欲しいところですが、今の所、「温肥」「冷肥」と言う言葉について書かれている資料は少ないようです。

ともかく今回は、どんな肥料を使えばいいのかということは、気候によって変わり、発酵が水分量と気候帯に大きく左右されるということが、馬と牛という広い観点からわかったことが収穫でした。

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