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グランドカバー「ツタバウンラン」の株分けとスリランカ「紅茶の神様」ジェームス・テイラーのつながり|Garden Dairy 2019年2月7日

2019年2月7日 月齢 2.2 大潮(新月の二日後)

最低気温(℃)1.3
最高気温(℃)15.5 
日照時間(h) 8.8

出典:気象庁ホームページ

二月の新月の日が、2019年は2月5日でした。この日が旧暦の元旦で、中華圏ではまさに年始の時期です。

この時に家の前に飾られるのが漢字の「福」を裏返した「倒福」というもの。

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この「家の前に何かを飾る」という風習は、ユダヤ教の「過越」が由来でもあるようです。

そしてこの49日後から行われる祭りを「五旬祭(ペンテコステ・聖霊降臨日)」と言います。時期がずれるのですが、ドイツではペンテコステと同じと考えられ祝われているのあが「五月祭(やよい祭り)」というものです。

これは、東京大学でも盛大に行われる祭りのようですが、この五月祭はアメリカでは「メイデイ(メーデー)」として、労働者の日としてお祝いされていることでも知られています。

で、この五月祭が行われるのが5月1日ですが、2019年の5月1日が特別なのは「大嘗祭」があるからです。

大嘗祭は新たな天皇の就任の記念して行う長いお祭り・儀式ですが、この大嘗祭を5月1日にしなければならない理由はこんなところにもあるようです。

これを、未婚の女性を主役にする祭りとして執り行っていたのがフランスのアルザス(エルザス)地方で、日本の「伏見家」が渡ったとされる地方でした。

〜以下こちら(PDF)から引用〜

だから正確に言うと、大塔宮は以後の日本天皇の大元になって、護良の子孫が欧州に渡るのです、そのあとで治仁王が渡って、その人の息子がオーストリアのハプスブルク家、当時オーストリアではなくアルザスのハプスブルク家の初代となったフリードリヒ3世になったということです。

〜引用終わり〜

現在の皇室につながる流れと、現在の伏見宮につながる源流の「貞成親王」の兄弟だった「治仁王」が偽装死をして、ヨーロッパに渡った。

そして、それが「ハプスブルグ家」と合流した。つまり、ベルギーやオランダなどのヨーロッパ貴族は、日本の血も入っているということですが、これを唱えているのが「落合莞爾」です。

まだこれが真実だとは断定できるものだと思えるところまで来ていませんが、かつて日本にいた皇族がヨーロッパの方にたどり着いたということことも推論から明らかになっているので、十分に可能性が考えられる説と言えるはずです。

と、この話はいずれご紹介することとして、話をガラッと変えて、庭の報告と参ります。

以前、庭のグランドカバー(地べたを這う植物)の「ツタバウンラン」という草についてご紹介しました。

明るい緑と白い花「ツタバウンラン」又の名を「シンバラリア」一軒家の半日陰で育つグランドカバー|Garden Dairy 2018年10月13日(土)

干し柿およそひと月でほぼ完成 冬に生育する草花と食べきれなかった柿と大豆。最近の6つのニュース|Garden Dairy 2018年12月25日(火)

今回は、その株分けが成功したので、その経緯を残しておくことにします。

グランドカバー「ツタバウンラン」株分け記録・メモ

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夏の最盛期には、小さくて白い花を咲かせる「ツタバウンラン」

「株分けができた」と言っても、庭の土を小さいサイズの鉢に入れて、地表が乾いたら水やりをしていたら、勝手に生えてきたという程度なのですが、今回、発芽から上の写真のサイズになるまで、直射日光に当てる必要はないということがわかりました。

この鉢を置いていたところは、二階の北側の窓辺です。

窓から入っていくる太陽の反射光は受けていましたが、太陽光は直接受けずとも、いつの間にか発芽していました。

その上、置きはじめてから、室内を暖めるためにファンヒーターを焚いて室内を暖めたり、反対にマイナスを記録した関東地方の寒さをもろに受けたりと、およそマイナス一桁から、プラス20度くらいまで、温度差が生じていた中でも、写真のように生育しています。

庭のものと比べると葉っぱは小ぶりですが。

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関東地方の12月下旬の庭の「ツタバウンラン」

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ツタバウンランの葉と水滴(10月撮影)

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ツタバウンランの花と葉

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ツタバウンランの花(10月撮影)

ツタバウンランについては、引き続き動きがあったら報告してく予定です。

ということで、ツタバウンランについて、さらに深掘りしてみることにしました。

 ウンランと「大英帝国」イギリスのスコットランド人

このツタバウンランは「蔦葉海蘭」と書きますが、「海蘭」というのは「ツタバウンラン」と同じ、ゴマノハグサ科の多年草

〜以下こちらから引用〜

ゴマノハグサ科の多年草。海岸の砂地に生え、高さ20~30センチ。全体に緑白色。葉は輪生し、長楕円形で3本の脈が目立つ。夏、ランに似た仮面状の白い花を数個つける。

〜引用終わり〜

文字通り花が「蘭」に似ていることから「ラン」となったそうで、写真を見る限り、ひょろひょろっとまっすぐ伸びて、先端に花をつける姿が特徴的です。

で、「海」の「ラン」とされるように、これは海岸の砂地に生えるそうで、他にも海岸の砂地に生える草花には、ハマヒルガオ、ハマダイコンなどがありますが、これは数え上げたらきりがないほどでした。

参考サイト: 浜辺で育つ野草|家の花

ただ、その中に「イワダレソウ」というものがありますが、これもまた「グランドカバー」として知られる「ヒメイワダレソウ」の仲間だと思われます。

ヒメイワダレソウ・一軒家の半日陰で育つグランドカバー。クラピアについて|Garden Dairy 2018年10月10日(水)

浜辺の植物の中には、海水を直接受けているものもあるようで、農業で言われる「塩害」というは、改良品種に特有のものなのか?とも考えたくなります。

ともかく、塩に強い野生の作物もあるということがわかりました。

さらに、「ツタバウンラン」の英名の一つに「Kenilworth ivy」とあり、このケニルワースとは、イギリス中部の都市です。

[画像出典] ONLINE ジャーニー

ケニルワースは、IBMやボルボの研究所が郊外にある、県都「ウォリック(英語: Warwick)」の北10kmに位置する町で、ケニルワース城は、「処女王」エリザベス1世に、初代レスター伯、ロバート・ダドリーが求愛した場所でもありました。

この二人は幼少期から仲がいい幼馴染だったようです。

女王への一大プロポーズの地 ケニルワース城を征く

ケニルワース城の周りには造成した湖が作られていたとうことですが、 おそらくその水はエイヴォン川から引いたものだと予想されます。

平面図

周りを湖に囲まれていた頃のケニルワース城。 [出典]イギリス古城散歩

この水辺に「ツタバウンラン」が群生していたのでしょうか。それも、園芸もさかんだった地域で、市場取引があったようなので、流通の際にそう呼ばれるようになったのか、真意は不明です。

ちなみに造成された湖は、内乱時代の1649年に破壊されたお城とともに、埋められてしまったそう。

そして、この「ケニルワース」という名前は、アフリカ、南アフリカ共和国の競馬場の名前や、 紅茶で有名なセイロン(スリランカ)のキャンディ地区の「ケニルワースお茶農園」なども記載が見られ、2018年当時の日本でも輸入されている紅茶のようです。 

キャンディは、スリランカの「シンハラ王朝」があった都市だったそうで、そこにスコットランドのジェームス・テイラーがお茶農園を開いた。つまり、現在までつながる「ティーハウス」文化のために、植民地化して世界貿易にした一族が、ここで大活躍していたということですね。

〜以下こちらから引用〜

スリランカでは、1825年にコーヒーの栽培が開始されました。その頃、スコットランドからたくさんの開拓者が移住し、1857年には8万エーカー以上の土地が開拓され、たくさんのコーヒー農園ができていました。スリランカではもともと紅茶よりもコーヒー栽培のほうが盛んだったのです。

1839年には、インドのカルカッタの植物園長であったウォリック氏が、スリランカのキャンディにあるペーラーデニヤ茶園にアッサム種を送りました。

しかし、スリランカでは、コーヒー栽培のほうが儲かったことと、茶の栽培が難しいという理由から、コーヒーから茶の栽培に切り替える農園主はまだいませんでした。

コーヒー農園におけるサビ病の流行
しかしながら、1869年に、キャンディでサビ病が蔓延したために、コーヒーを栽培していた農園は大きなダメージを受けることになりました。サビ病とは、コーヒーの葉の病気であり、伝染率が高く、農園全体が全滅してしまうこともありました。

スリランカのプランテーションの所有者たちは、財政上の破滅を避けるために、コーヒー栽培から茶栽培へ転換していきました。何百万ものサビ病にかかったコーヒーの木々を引き抜いて、燃やしていく作業は大変なことでした。また、新しいコーヒーの苗木を植えても、すぐに枯れてしまったので打つ手がありませんでした。結局、コーヒー農園は矢継ぎ早に倒産していったのです。

ジェームス・テーラーの登場
スリランカで茶栽培が急速に発展したのは、インドからやってきた入植者達や、ジェームス・テーラーの卓越した指導力のおかげだったかもしれません。

1851年に、スコットランド出身のジェームス・テーラーは、スリランカに渡りました。彼は当時16歳であり、最初はコーヒー栽培の助手として働いていました。

彼がスリランカで仕事を始めて5年後に転機が訪れました。彼の雇用主であったハリソン氏とリーク氏は、ジェームステーラーの仕事ぶりに感銘をうけて、ルレコンデラという茶園を彼の担当にさせて、茶樹の栽培の実験をするように指示しました。スリランカのコーヒー園はサビ病の流行によって壊滅状態にあり、農園主たちはコーヒーから茶へ方向転換するしかなかったのです。

インドでは、茶の木の栽培の成功には15年以上かかりましたが、テーラーは2年ほどで成功させました。

ジェームス・テーラーはスリランカに最初の製茶工場を建設しました。それは工場とはいっても、とても原始的なものでした。

その工場はすぐにスリランカで有名になりました。1872年に、ジェームス・テーラーは揉念機を作りました。また、彼は茶樹の苗木を交配させて強い品種を作っていきました。ジェームステーラーがスリランカの紅茶産業の礎をきずいたといっても過言ではないでしょう。

〜引用終わり〜

「紅茶の神様」ジェームス・テイラーもまたスコットランド人。明治維新の時に日本の転覆を資金的に援助したのもスコットランドの一群でした。

大英帝国の世界侵略は、そのほとんどが「スコットランド系」

ここでも繋がりました。

イタリア金融商人と源氏と明治維新。修道院と錬金術とヤクザ③|Garden Dairy 2019年2月10日

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